「やはりここでしたか、仁王君」
校舎裏、まるで校内を隠すかのように植えられた木々のひとつにもたれて、彼はしずかに瞳をあげた。
「おお、柳生か」「柳生か、じゃありませんよ仁王君。いい加減きちんと授業に出て下さい。あなたがいないと必ずわたしがあなたを探すはめになるのですからね」迷惑です、と言うと彼は、彼女のようじゃのう、とまるで関係のないことを言ってくすくすと笑った。



「授業なんか出んでええんじゃあ」そう言って彼はさも面倒臭そうに腕を頭の上で組み、ふああ、とあくびをする。「授業なんか出たって、必要なことなど何一つ教えて貰えりゃあせん」「そんなことはないでしょう」わたしは根拠も無く、学校というものを擁護してみせる。わたしの役割りはそこにあると、わたしが思っているからだ。ほんとうは、授業で教わることに、必要なものなど何も無いと、わたしだって思っている。彼は、そんなわたしにすいと瞳を向けると、「本当にそう思うか?」とわたしを見透かしたようなことを言う。わたしは彼の、そういうところが苦手だ。





「わしはの、」彼はわたしから目をそらし、どこかを彷徨うように目を泳がせながらつぶやくようにこう言った。「わしは、自分がさっぱりわからん。わしがどんな形をしておるのか、わしの肉はわしをどのように形作っていて、その中にわしの意識はどのようにうずまっているのか、何もわからん。自分自身のことすらこれほどまでにわからんのに、そのわしのまわりにあることなど、しってどうしようというんじゃ」それだけを一気に言い終えると、彼はふうっと力を抜いて、またこちらを見て微笑む。その笑みが酷く淋しそうに見えてわたしは焦る。彼の、他人になりきってしまえる彼の、自分をうしなってゆく淋しさに触れて、わたしは胸がぎゅうと締め付けられるような悲しみを覚える。胸が、胸が痛い。



「仁王君、」そしてわたしは彼の淋しさを埋めようと必死になる。この悲しさがどこからくるのかなどわからない。ただ、胸が痛い。「だから、わたしがいるんじゃないですか」そうだ、だからわたしがいるのだ。他人になりきるがゆえ、自分がわからない彼に、彼自身を教えるために。彼のための彼になるために。だからわたしがいるのだ。「仁王君、」「わたしは、自分はあなたの鏡だと、いつも思っていますよ」だから、そんなに淋しそうな表情をしないで。「仁王君、」



「やーぎゅ、」彼の手がふわりとこちらへ伸びてくる。くちびるが近付く。そして瞳が。やわらかな感触とともに、至近距離で瞬く瞳がわたしを射抜く。
「愛しとうよ」
それはまるで、わたしをすり抜けて向こう側の誰かに話しかけでもするような。「愛しとう」もう一度、今度はしっかりとわたしを見据えて、彼は言う。彼の言葉はしかしわたしではなく彼自身へと投げかけられた言葉だ。だからわたしもわたし自身ではなく彼自身となって、くちびるをひらく。「わたしもですよ、」「わたしも、あなたを愛しています」そこでようやく彼の瞳はやわらかさを取り戻す。もはや何も射抜きはしない瞳が、ふうとやわらいで、自分のための笑みを零す。そしてわたしは安心するのだ。
ああ、彼がいつも、わたしによって満たされますように。そのためになら、わたしはいつでも彼になる。彼とわたしがひとつになって、ようやく世界に平和が戻る。





「さあ、戻りますよ。これ以上ここにいたら、わたしまで教師の小言をいただきかねません」そう言って立ち上がり、いっしょに喰らってくれたらええじゃろー、と言って笑う彼に、いやですよ、とわたしも笑って言葉を返す。「戻りましょう」「・・・今夜は帰りたくないのう」「ばか言ってないで、ほら」まだぐずぐずと何かを言う彼を早く、と急かして、渋々と立ち上がった彼に「授業にきちんと出たら、ごほうびをあげますよ」と小さくささやく。「・・・ほんとか?」「授業に出たら、ですからね」とたん瞳を輝かせて、いそいそと校舎に向かい始める彼に、ちいさく笑みを零す。そう、これでいい。こうして少しずつ、わたしと彼の日々が、積み重ねられるといい。そうして、いつかは。



「やーぎゅ、早くー」さっきとは打って変わって、たのしげなようすでわたしを呼ぶ彼に、はいはいと言いながら、いつかのわたしと彼を夢見て、そしてまた笑った。














20090603